物語はあってもなくてもいい
先日、ツイッターで流れてきたこんな記事を読んだ。
筆者がkindleで本を出版したが全く売れなかったこと。その後の転落。福島での除染作業員やホームレスも経験し、現在はプログラマーとして大学で勉強するための資金を稼いでいるようだ。
とても重厚長大な文章でその筆力には感心せざるを得なかった。読後感は「グッドウィル・ハンティング」の鑑賞後に勝るとも劣らない。
彼の人生ははたから見たら波乱万丈だが、彼自身は淡々と事実を記している。そこには過去の自分と現在の自分を横並びのものとして見つめる姿勢がうかがえる。過去の自分があるから今があるなどとはつゆほども言おうとはせず、自分という存在についていい意味で諦めがあるように思えた。
ひるがえってぼく自身の過去を思い出そうとしてみても、あまり人に自信を持って語れるような過去がない。ぼくはまだ大学4年生だが、大学の4年間だけを振り返ってみても、その記憶はあいまいかつ断片的だし、入学当初の自分と現在の自分はかなり物事のとらえ方や人との接し方が異なる。というか、もはや1年もたつと過去の自分はもはや他人事のような気もしてくる。だから、飲みの席などで周囲が高校時代や過去の恋愛経験の話に花を咲かせているとき、ぼくとしてはあまりその話に入っていきたくない。どの時期の自分を振り返ってもあまり現在の自分と接点がないような気がしてならないのだ。
おそらく、そのように自分の記憶があいまいなのは、友達が少なかったからだろう(笑)。哲学者の仲正昌樹も同様の告白をしており、その原因を間主観的に構成された歴史と自身の記憶がうまく対応してこなかったことに求めている。ふつうの人は自らが身を置いている歴史的文脈が安定していればそれとの対応関係で記憶も安定し、周囲の他者たちとの間で物語を紡ぎだしていけるのだという。ところが、いろんな歴史をさまよう(つまり人付き合いがよくない)ぼくのような人間は内面的記憶がぼやけてきて物語がうまく描けない。要するに、友達が少ないという端的な事実も哲学という衣装を身にまとうことによっていかにも高尚なテーゼであるかのように見えてくるのだ。
ところで、近代という時代は、すごくざっくり言ってしまえば、はっきりした自己というものをみながもっているとされる時代だと思う。だからこそその自己の在り方には矛盾は許されない。昨日の自分と今日の自分、はたまた10年前の自分と10年後の自分はどこか一貫しているはずだ。ぼくたちはそれを「自分らしさ」とか「ありのまま」と形容してきた。
でも、それはすごく息苦しい生き方だ。誰にだってキレイで整った物語があるわけはない。話したくない過去の1つや2つ誰にだってあるし、人に話せるような成功体験がない人だっているだろう。ましてや、ぼくのように過去を語ることすらまともにできない人間もいる。
そういう「さえない」過去を物語にすることは、過去の自分の否定でもある。過去があって現在の自分があるというストーリーは、過去の自分を現在の自分に活かすためだけのものとして解釈しているからだ。哲学者の永井均(哲学者引用しすぎ)が言うように、過去は現在のためにだけ存在しているのではない。過去は過去としてだけ存在する。もし過去を物語にしたければ、ぼくたちは「過去の経験のおかげで今がある、ということにいつの間にかなった」と自覚しなければならない。
でも、過去をただ過去と切り離して考えることなんてぼくたちにはできそうもない。やっぱりぼくたちの多くはこう言いたいのだ。「世界にひとつのプレイブック」のティファニーみたく。「過去が今の私を作ったの。過去を含めて自分が好きよ。」 と。
世の中には自分の過去を恥ずかしげもなく語る人もいるし、現在の自分を肯定したいがために過去の自分を抱きしめる人もいる。そうかと思えば、ぼくのように昨日の晩御飯を忘れるかのように自分史を思い出せない者もいる。
長くなりましたが、過去をどう解釈しようと、あるいはしまいと、どれが正しい生き方かなんてカトリックとプロテスタントの宗教戦争くらい不毛なのだと思います(ここまでの文量が不毛ということは置いておこう)。
まあだから、物語なんてあってもなくてもいいんだろうな。
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